ともさんの日常(ティータイム)。

旅をする多趣味なオタクです。たまに難しい話をしたり、旅の報告とかやります。

様々な学問に触れるという意味:ともさんの雑記

おばんです。

前回の記事で、割と伸びそうな題材で書いたとか記しておいたら、まったく伸びなかったともさんです。やっぱりブログは定期更新しないと読者が付かないんだなぁ(自戒)

 

さて、先ごろ私は休み明けの講義、どれを履修しようか考えている中でこのようなツイートをしました。

 

これはつまり、法学部の人間が文学もちょっと学びたいと言っているようなものであり、ごく一般的な大学生ならば通常はこのようなことはしません。興味のあるなしに関らず、そもそも自学部の講義、つまり自分の専攻分野のものでないと単位にならないからです。

単位を修得し、卒業することだけを考える大学生がほとんどです。学生や大学にそうさせているのが日本社会の構造であり、私にはそれを批判することはできません。

 

 

リベラルアーツとは

さてここで、リベラルアーツという概念をご紹介します。源流としては古代ギリシアにおけるものであり、ラテン語のliberalis(自由人)+arts(技術・学術)で、「自由人にふさわしい学び」という意味を持ちます。ここでの自由人というのは、奴隷に対を成す意味での自由人です。

私が紹介するのは源流のそれではなく、そこから着想を得たアメリカの教育におけるリベラルアーツです。

ja.wikipedia.org

そこにはこうあります。

数学、物理学、生物学、化学、天文学などの自然科学、経済学、政治学環境学などの社会科学、哲学、歴史学、宗教学、文学、言語学、演劇、芸術全般などの人文科学にわたる諸分野の中から様々な授業を履修し、通常、第2学年(Sophmore)の終わる時に専攻(メジャー)を選択する。 

 

つまり、幅広い分野をつまみ食いするように学んで、その中から自分が専攻とすべきものを見つけるというのが米国のリベラルアーツカレッジなのです。これには二つの意義があります。

 

一、様々な分野に触れ、実際にその中に入ってみることで自分との相性がよくわかる。

日本の高等教育システムでは、入学時に「○○学部」が決まっていることがほとんどです。これは、「文系」「理系」の棲み分けがはっきりしていること、多くの学生が就きたい職業から逆算してそのために必要なことを学ぼうとしていることによるものであると考えられます。つまり、「学問」をするために学ぶのではなく、後の仕事のために学ぶのです。

もちろん、アメリカも完全にそうではないわけではありません。が、少なからず仕組みは違います。多くの大学が、リベラルアーツカレッジ同様に最初の2年は幅広い分野の授業を選ばせ、3年進級時に専攻(日本での○○学部学科)が決まります。また、ハーバード大などの名門大学では文系・理系の区別を行わないことが多いようです。そのようにすることで、様々な学問に対して自分が合う、合わないが分かります。さらに、アメリカの大学においては専攻の考え方も柔軟であり、3割の学生が大学生活中に専攻を変更したり、「ダブルメジャー」という2つの専攻を持つ学生も居るそうです。

 

二、学ぶ過程で様々な分野に触れることで教養が身につく

私が言いたいことはほぼこちらの方にあります。

教養、と書くと漠然とした感じがしますがつまりは「人生を生きていく上でより有利になるための知識・学び」です。仕事の中だけで役立つ物ではなく、息をして歩いている一秒ごとに役に立つものです。

逆に言えばそれは、必ず必要ではないもの。それが無くても文明社会の中では最低限の生活を送ることが可能なものでもあります。

 

例えば、「コーヒー豆にはアラビカ種、ロブスタ種の2つがあり、ロブスタ種はアラビカ種の1/10のコストで生産ができるが味では劣る」ということ、及び両者の味や見た目の特徴を知っていると、「このコーヒーはこのような価格で売られているが、これは妥当な価格設定だろうか」と疑うことができ、次回からよりよいコーヒーを購入することが可能となります。オレオレ詐欺を知っていると詐欺を回避できるのと同じです。

その程度の物ですが、時と場合によっては人の命を救うこともあります。(応急処置法や危険な動植物に関する知識など)

 

それらは様々な本を読んだり、様々な場所に行き、様々な人と関わると身につくものです。大学でも同様であり、単一の分野にしか触れないよりは、様々な分野に触れた方が教養は深まります。学問とは必ずしも深み、専門性を持って初めて役立つだけの物ではありません。少しつまんだだけでも、その中に入っていたものが例えば恋人のなだめ方、明日の弁当の中身、徒歩で行くかタクシーで行くか...などを考えるときに手助けをしてくれるのです。

 

また、頭の中にある情報やその分野が多ければ多いほど、未知のものに対してそれらを結び付け、結論を推測することが容易くなります。(洞察力というものかもしれない)

例えば、「落雷で家電製品が壊れることがある」ことと「遠くに積乱雲が出てるから天気がヤバい」ことの両方を知っていれば、今後近くに雷が落ち、自宅の家電製品が壊れる可能性を予測して、出かける前に電源タップを抜く等の対策を講じることができます。上ではコーヒーの分野で完結していた話でしたが、今回はそれぞれは家電に天気と違う分野の話ですが、両者があって初めて最後の結論があります

私たち人間は、知らず知らずのうちに日常の中でそれを行い、生活を行っているのです。そうやって未知を少しづつ無くして、文明を進化させてきたのです。

 

 

いかがだったでしょうか。例えがちょっと微妙でしたが、私も教養があればもう少しマシな例えが書けたことでしょう。つまりは、「専門性を追い求めるのもいまの社会の中では重要かもしれないけど、それだけではちょっともったいないよ!」ということです。せっかく大学という場にいるのだから、自分が触れうる限りの様々なものに触れてみようと思っているというお話でした。